snnr

ドラマ『素直になれなくて』、Twitter が題材だという触れ込みだったので興味を持ち、結局全話観てしまった。主人公の名前(ハンドルネーム)が「ハル」ということは、森田芳光監督の『(ハル)』から取ってるんだろう、と思わせられといて全く関係ない話だった。インターネットどころか電話さえ要らないような。
あえて『(ハル)』を引き合いに出させてもらうけれど、あの映画は、コミュニケーションの新しい形がどのような恋愛を形成するのかということを、インターネット普及以前にいち早く検証した作品で、脚本家がこれを観ていない可能性は非常に低い。
(ハル)』から時代が移り、匿名の誰かと心は繋がっている感の『電車男』を経て、今やインターネットは単なる出会いのきっかけであると断じたのは、まあ、そういうこともあるかも知れないと思って観ていたが、最後まで本当にそれだけだった、というのがよくわからない。ラストに及んで登場したのが「届いていないかも知れない手紙」だ。手紙を否定するわけではないが、特にこのドラマの意味合いにおいて、はなればなれになってしまった時こそインターネット使うんじゃないのか。
いつでも、どこにいても、一瞬で意思が通じる、通じてしまうということ。物理的な距離は意思の疎通に関係しない。言葉足らずだったり齟齬があったり、相手が見るとは限らないにしても、とにかく届く。『(ハル)』以降の書き手であれば、このコミュニケーションのゼロ距離感は前提として受け入れているものと思っていた。現代劇の顔しておきながら、無理矢理目をつぶって話を進めるのは逃げではないのか。インターネットはちょっと便利なドラマの小道具ではなく、すでに電話以上のコミュニケーションツールになっているはずではないのか。恋愛の普遍性? 恋愛ってコミュニケーションのたまものじゃないの?
時代劇のように、ある様式としての「トレンディドラマ」ということで捉え直すこともできそうだけど、Twitter を持ち出している時点でリアルタイムの世俗を扱っていることは明らかであって、そういう、すぐに移ろい変わってしまう「今」の関係性の物語を、テレビドラマで描いてくれずにどのメディアでやればいいのか。